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労働組合関係資料

 

労働資料館の閲覧再開のお知らせ

労働資料館の閲覧再開のお知らせ
 
 新型コロナウイルス感染症の拡大防止に伴い、労働資料館の閲覧を休止してきましたが、2020年6月1日より再開します。
 ご利用時間:月曜~金曜(祝祭日は除く)、10時 ~ 16時
 

資料の構成

資料の構成
 
 労働組合関係資料は、労働資料館所蔵資料の中で最も分量が多く、書籍や雑誌も含めて多様ですが、その核をなすのが国鉄動力車労働組合(動労)の資料群です。動労の前身である機関車労働組合の結成大会(1951年)から動労の解散大会(1987年)までのすべての全国大会、中央委員会の資料や議事録が(一部欠落はありますが)保管されています。
 機関車労働組合の組合員は、もともとは国鉄労働組合(国労)内の職能的な集まりで、本部への要求を積み重ねる中で機関車連盟、機関車協議会へとまとまり、国労からの脱退・新組合結成へと踏み切ることになりますが、そのような結成以前の経緯を知る資料も残っています。
 その後、国鉄当局との交渉権を獲得し、総評加盟、反合理化闘争を重ねる中で、1960年代、70年代の日本労働運動に存在感を示すまで成長していく経緯も、残された資料群から読み解くことが可能です。
 以下は、機関車労働組合結成前後の様子をまとめたものです。
 

機関車労働組合の歴史

機関車労働組合の歴史
 
 2020年9月/川村潤
「機関車労働組合」の職能的性格
 
 機関車労働組合(機労)は、国鉄労働組合から脱退した組合員が1951年に結成した労働組合で、のちに国鉄動力車労働組合(動力車労組)と改称し、1960年代、70年代に激しい順法闘争やストライキで名を馳せ、1987年の国鉄分割・民営化=JR誕生の立役者となり、その年に解散するという経緯をたどっている。
 結成前後に強く見られたその職能的な性格を素描することが本稿の目的である。
 
国鉄労働組合の誕生
 
 1945年8月15日の敗戦を経て、日本の労働運動が急激に活発化するのに比して、国鉄の労働運動は当初必ずしも迅速に立ち上がったわけではなかった。戦前・戦中と抑圧されていた労働者が解放され、意欲に満ちて活動し始めたのを横目に見ながら、国鉄ではむしろ当局自らが職場の指導者らを集め労組結成に乗り出した。11月に戦争中の奉公会を改組し職場ごとに鉄道委員会を設け、そこから労働組合への移行を指導しようとしたのである。
 他方で、敗戦によってはじめて活動の自由を獲得し、急進的な運動の担い手になった共産党や社会党に属する人びとが、労働運動にとって戦略的な位置にある国鉄労働者に積極的な働きかけをおこなっていた。これらの働きかけと国鉄以外の労働運動の活発化に触発されて、国鉄内部にも自主的労働運動の流れが作られるようになった。
 国鉄当局の指導と自発的運動とが絡み合いながら、終戦の年の末には多くの従業員組合やその連合会が作られるに至った。この地方管理局ごとの連合組織をまとめ全国的な中央組織とするために、1946年2月27日、国鉄労働組合総連合会(国鉄総連)の結成大会が開催され、3月15~16日の第1回中央委員会で、宣言、綱領、規約、役員を決定した。組織人員50万8656人で、当時の日本の全労組員の約1割を占める大労組であった。
 国鉄総連は、同年9月の人員整理の撤回を求めるストライキ、翌47年の2・1ゼネストと続く、その盛り上がりの中で1942年6月4日に単一組織に改組する国鉄労働組合の結成大会を開くに至った。
 一方、この流れは機関士らが不満を蓄積させる過程にもなった。戦前来、国鉄には強固な身分制が支配し、機関車乗務員に特別待遇の賃金を付与していたが、戦後の民主化が身分制度の打破につながり、かつインフレと大幅賃上げ、生活給主体の配分により、他系統職員との格差が急速に縮小し、機関車乗務員の既得権が崩壊していったのだ。
 以下、その事情をたどる。
 
戦前・戦中の機関士の処遇
 
 大日本帝国憲法は、天皇の大権として官吏制度と任用を定めるとしており、官吏は「天皇の官吏」とされ、公法上の特別権力関係に基づき、厚い身分保障と特権を伴っていた。官吏の階層は、親任官、勅任官、奏任官からなる高等官とその下の判任官に分類され、鉄道院総裁は天皇の官吏として最高位の親任官であり、以下幹部職員の勅任官―奏任官という秩序が現業員内部にまで及ぼされて、判任官―鉄道手―雇員―傭人という身分階層制がしかれていた。
 この中で、機関士は特殊な扱いを受け、現場の職員の中で唯一判任官試験を受けて官吏となることができた。そして、その身分に相応して賃金の格差も大きく、しかも同じ乗務員である機関士と電車運転士との間にも大きな格差があった。判任官・鉄道手である機関士は制服に二本筋、雇員たる乗務員は一本筋で区別された。
 機関士が月給制であるのに対して、雇員、傭人であった駅員や保線員は日給制で、よほど大きな駅長にでもならない限り、機関士の賃金に並ぶことができなかった。傭人にあっては制服貸与や超過勤務手当もなく、賞与も極端に少なかった。
 
民主化の進行と機関士の不満
 
 この構造は、1945年8月の敗戦とともに大きく変化する。戦後に始まった地方管理局ごとに結成された労働組合は、生活を維持する賃金を求めるとともに、身分制度の撤廃を求める要求を行った。「反民主的幹部の追放」「学閥の打破」「旅費の差別撤廃」「制服の貸与」などの諸要求に始まり、次第に身分制度の修正と連動した給与面の改革を求める動きを強めるようになった。1946年4月には、高等官俸給令、判任官俸給令を廃止して新たな俸給令を制定することで、判任官という身分が消滅するとともに、傭人という身分もほとんど消滅するに至った。
 合わせて、戦後の急激なインフレーションに対応する賃金引き上げが、年齢・扶養家族を考慮した生活給として支払われることによって、身分上の賃金格差が急速に縮小していった。
この身分格差の解消は、石炭事情の悪化もあり劣悪な乗務労働を強いられていたことと重なって、機関士に強い不満を生じさせることになった。国鉄労組にあって機関士の独自要求が最初に見られるのは1947年10月16~19日の第2回国鉄労組臨時大会においてであった。運転協議会として提出した「機関区分」の項目にあり、「動力車乗務員の特殊給を支給せよ」という内容であった。
 この国鉄労組大会で、「2・1ストの戦術が現実に適合しないときその打開の唯一の戦術が地域闘争である」(鈴木市蔵)という左派の意見と「賃金その他は支部の地域闘争から分を越したもので非合法なものである。(地域闘争は)それを合法的に見せかけるにすぎない」(星加要)という右派執行部が対立、その他の課題でも左右が激烈に争う中で、機関士の要求は議論の俎上にものぼらなかった。ちなみにこの大会の左右の争いは左派の勝利をもって終わり、大会翌日10月20日に右派は「国鉄反共連盟結成準備会」を設立することになる。
 
 機関士たちの秘密交渉
 
 先の機関士の要求は、国鉄労組内の一機関である機関区連盟でまとめられたものだった。国鉄労組内に職能的利害を調整する機関として、職種別協議会が設けられており、1946年10月に運転協議会が作られ、翌47年7月31日~8月1日の全国運転協議会で機関区連盟、電車区連盟、検車区連盟という3分科会が位置づけられていた。後に機労結成に進むことになる機関士たちはこの機関区連盟のもとに参集した。
 そして、国鉄労組大会で左右の争いに隠れてその要求が斥けられていた背後で、機関区連盟は国鉄内の運行を司る部局である運転局と密かに交渉を繰り返していたのであった。国鉄労組大会が行われた47年10月には運転局より「責任技量手当」の支給が提案され機関区連盟内で議論されているが、賃金・手当を所管する職員局給与課に知らされないままで、発覚後、職員局は運転局に不満を表明していた。
 このような流れを受けて開催された、47年11月14~16日の機関区連盟委員会は、国鉄労組に対して機関区連盟の姿勢を明確に打ち出す場となった。
 その第一は、運転協議会の機構改革をはかるための5項目要求である。その内容は、①運協本部(労組の認めた6名)を各分科の連絡機関とする。②運協の本部は各分科の連合であること。③各分科はそれぞれあらゆる事態の生起にたいし、その自主性を拘束されないこと。④現在の各局1名代表による組織は根本的に改正すること。⑤経費について労組本部予算は適当に3分し、組合員による会費の予算は各分科において処理すること。
 この要求の意図は、組織上も財政上も、運転協議会の権限を弱め、機関区連盟を職能的利害を代表する主体とすることにあった。加えて、「機関区連盟を将来職能協議会として労組本部に認めさせることを前提にして」組織強化を図ることを決め、名称を「機関車連盟」と改めた。
 その第二は、言うまでもなく「動力車乗務員の特殊給を支給せよ」に代表される機関士の処遇を他職と比較して大幅に改善するという要求である。運転局提案の「責任技倆手当」が非公式に報告された際、「運転人の優位をかち得るには」「完全でなくても一刻も早く実現する」という決定がなされたように、機関士への優遇措置を求める強い欲求を基礎としたものだ。
 第三は、このことと矛盾するようであるが、機関士以外の機関区内の他職種の待遇改善を求めていることだ。機関区には機関士・機関助士などの乗務員の他に、検査掛、炭水手、技工、庫内手、事務掛、倉庫手などがおり、その多くは雇人、傭人で、技工は日給、制服無支給など低い処遇に置かれていた。その賃金引き上げや制服貸与の要求をはじめ、汚損職への石けん・タオルの支給などを求めるものだった。
 これは機関区内部では労務職の待遇平等化要求を支持して団結し、外に向かっては機関士の高い地位を維持回復しようとする運動であった。この機関区連盟委員会で打ち出された機関区を基礎とした独特の要求形態こそ、機関車労組結成の素地となり、その後JR発足で解散となるまで続く、機関区の労働者の活力の源泉であった。
 
「2920円ベース」がもたらしたもの
 
 さて、機関車連盟へと改称し独自の道を歩み始めた機関区労働者が次に直面したのが、かの「2920円ベース」であった。
 この問題に立ち入る前に「ベース賃金方式」について触れる。
 労働攻勢が激しさを増す中で労働側は1947年2月1日の通称「2・1スト」を計画するが、決行前日にGHQの命令で中止させられる。このストライキの主要な課題が賃金引き上げであったことから、政府はスト中止後ただちに対応を迫られることになった。2月20日に官公職員待遇改善準備委員会(官待)が設置され、賃金体系の骨子を基本給(生活保障給と能力給)と地域給(都市給と寒冷地給)とし、1600円の水準で決着した。その後、社会党片山政権が誕生しそのもとに策定されたのが、工業35業種の業種別平均賃金の平均値としての1800円を公務員給与に適用するという賃金決定方式であった。7月に片山内閣が「1800円ベース」を正式に決定・発令し、以降、官公労労働者の賃金決定にこの業種別平均賃金に基づく「ベース賃金」が適用されることになる。
 ただし、先に述べた官待策定による賃金体系は電算型賃金を踏襲し、年齢や家族構成に基づく生活給的なもので、機関車連盟が求めていた「動力車乗務員の特殊給」とはほど遠いものであったことに留意する必要がある。
 その次に出てくるのが1948年の「2920円ベース」であるが、その前段の「1800円ベース」をめぐる議論の中で政府より「職階制の導入」が提起されている。「職階制」に基づく賃金制度とは、官公庁などで多様な職務を、内容の複雑性、困難性、責任性などに応じていくつかのグループに分類整理し、そのグループごとの賃金引き上げのルールをつくるというものだ。
 政府は前年末に中央労働委員会が賃金決定に関する調停案として提出していた公労使による「臨時給与委員会」を設置し、官公労に参加を呼びかけた。全逓以下の左派系の官公労はボイコット、民同右派の主導下にあった国鉄労組のみが委員を送るという結果になった。労働側は国鉄労組のみという臨時給与委員会は、職階制の強化を含んだ「2920円ベース案」をまとめ、48年2月27日に閣議決定された。全逓などは「地域闘争」と称して職場単位のゲリラ的なストライキを頻発させたが、GHQの「地域ストなど一連の争議行為は2・1スト禁止令に抵触する破壊的行為」とする指示を受け、3月に終息させられた。こうして、「2920円ベース」は日本の賃金制度に「職階制賃金」を導入する出発点として歴史に刻まれたのであった。
 
機関車連盟の誤算
 
 万人平等主義的生活給要求が国鉄労組をはじめ一般的な風潮であったこの時代に、職種による賃金階梯を制度化しようという「職階制賃金」は、「動力車乗務員の特殊給」の実現を切望する機関士たちに期待をもたせた。
 「2920円ベース」に基づき国鉄労使が決めた賃金制度は、職務のウエイト別に12ランク、38段階の序列からなる職階制賃金で、この内容はその後の職階秩序の確立の基礎をなすものとなった。
 しかし、現実の賃金改定においては、管理職に配分の重点が置かれたことで身分制の回復にはなったものの、機関士等の既得権の回復につながらなかった。「職階制」が導入されても賃金配分を国鉄労組本部と国鉄職員局の交渉に任せていては、機関士の処遇が改善しないことが突きつけられたのだ。
 そればかりか、以前は機関士等の下位職であった職種につく者が賃金において上回るという転倒さえ見られ始めたのだ。機関士のような責任職務は事故を起こすと昇給停止を食うため、他職務に比べて長い間には当初設けられたわずかな差が消滅してしまうからだ。実際、同一年次の就職者で駅手になった者より機関士のほうが低い例が発生していたのだ。こうして、機関車乗務員に、俸給表(賃金表)を別にして「圧倒的に高い」賃金にしなければだめだという意識が作られるのである。
 
二つの事件
 
 機関車連盟の要求は、第一に「職階制」の修正であり、その内容は戦前並みの「圧倒的に高い」待遇の回復であった。そして、それがただちに実現されない状況下で、乗務粁日当、トンネル手当、技工制服問題など、機関区独自の待遇改善要求を繰り返し提示する形で推進された。この要求が、機関車連盟の単独職能別協議会化=機関車協議会への改組、機関車協議会の交渉単位としての承認要求まで進むことは、以上述べた経緯から容易に理解されるであろう。
 そしてこの機関車連盟の闘いに、米占領政策の影が及ぶのである。その一つが、占領軍の軍需輸送に対応する1億3千万トンの貨物輸送計画のもと、機関車乗務員の不足を補うため、1948年7月に、それまで二人乗務であった機関助士を一人とするという要員対策が提示されたことであった。もう一つが、同じく7月に公務員の争議権を制限するマッカーサー書簡が日本政府に発せられ、それに基づき公務員のストライキを禁止した政令201号が公布されたことである。
 これらは松山機関区事件を発生させ、新得機関区を中心とする職場離脱を生むことになった。他にも機関区をめぐる事件が起きているが象徴的なものとして、この二つの事件をとりあげる。
 国鉄労組愛媛支部松山機関区分会は、7月1日実施された機関助士一人乗務を前提にしたダイヤ改正に反対して、指定を無視した二人乗務や集団欠勤で闘っていたが、7月末の政令201号公布でこの争議行為も禁止され、そのあと押しを受けた国鉄当局が強硬姿勢に終始する事態となった。松山機関区乗務員会は8月1日から3日間をかけて職場大会を開催し、「二人乗務を強行する。犠牲者を出した場合は無期ストに入る」との決定を行った。機関助士一人であった仕業を拒否する事態を受けて、当局は直ちに乗務員会会長ら5名を免職処分、これに反発した組合員が無期ストに突入する事態となった。当局は他の機関区等から応援を受け列車の運行を続けるとともに、警察が政令違反を理由に乗務員会会長ら10名を逮捕、徹底した弾圧のもとに事態を終息させた。
 もう一つの事件はこうだ。北海道の国鉄根室本線にあった狩勝峠を越える狩勝トンネルは、長く急勾配の上トンネル断面が小さく、特に登っていく列車は、蒸気機関車の高熱の煙や蒸気が運転席にまとわりつき、乗務員にとっては絶えず窒息や火傷の危険と隣り合わせの状態であった。身体の露出している部分に手拭いをまきつけなければ火傷をしてしまうほどの苛酷さであったという。機関士たちは粗悪炭の改善、トンネルの改修、手当の増額、軍手・手拭いの支給を求めて減車運転などで闘ったが、いっこうに改善せず、1948年6月23日、国鉄労組旭川支部・新得機関区分会の柚原秀男分会長が労使の争議状態を苦にして自殺、続く8月1日、トンネル通過時に機関助士二人が窒息する事故が起こる。これに憤激した新得機関区の59人の青年組合員が柚原の墓前に集まり、運動会の赤旗に書きなぐった「民族独立柚原青年行動隊」を旗印に職場を離脱し、宣伝・扇動のために旅立った。
 国鉄当局がこの責任を問い国鉄労組旭川支部の役員らを免職処分にしたことから、富良野機関区の労働者110人が職場放棄、さらに追分、鷲別、苫小牧、遠軽、北見、函館の各機関区に拡がった。政令201号違反として警察・検察が離脱者を検挙する一方、共産党がストライキ禁止下の地域人民闘争と位置づけて煽ったことから、政令201号に反発していた国鉄労組、全逓の労働者を中心に全国に職場離脱が拡大し、この事件による国鉄での免職者だけで1002人におよぶという膨大な犠牲者を生み出したのだった。
 
 機関区の仲間が犠牲になったことへの痛み
 
 この多くの犠牲者が共産党員の扇動によって生み出されたことは間違いない。しかし、機関車連盟はそのせいとばかりしたわけではなかった。1948年11月9~11日の機関車連盟第3回全国委員会において、薄井政司会長が次のような挨拶をしている。
 「この多数の処罰者のほとんどはわれわれ機関区関係の方々でありまして、この原因については種々喧伝されているような直接的影響はあった事も事実ではありますが、それまでの長い間、機関区従業員の不平不満がすでに爆発点に達し、最悪の条件にあったことは誰しも認めないわけにいかないところであろうと思うのであります」
 つまり、共産党の扇動を受け入れる素地として、機関区職場のとりわけ青年層の中に不満があふれていたということだ。それぞれの実力行使における発端は、機関助士の二人乗務の廃止、軍手・手拭いの支給、技工の制服貸与や汚損手当等の問題の解決を求めていたところにあり、それらが国鉄当局はもとより国鉄労組本部にも受け入れられないことへの憤りにつながったと機関区の仲間たちは受け止めていたのである。
 政令201号に対する実力行使の中で、犠牲の大半を機関区の仲間たちが負ったことはきわめて痛苦なことであったに違いない。そして、左右の対立とその後の、実力行使そのものに批判的であった民同派の国鉄労組制覇の中で、多くの犠牲者に対する国鉄労組本部の救済措置はほとんどなされなかった。
 政令201号を前後する時期に集中した一連の事件を通じて、機関区の労働者の中に、共産党に対してはもとより、右派民同に対してもぬぐい去ることのできない強い不信感を抱かせることになった。
 
 単独職協から単独組合結成へ
 
 この政令201号を受けて国鉄労組第5回臨時全国大会が48年9月30日~10月3日に金沢市において開催された。職場離脱の責任を問う激しい討論の末に中央闘争委員会の不信任が可決、新三役に副委員長と書記長の任についていた共産党員が排除され、民同派のみの構成となった。
 この騒然とした大会でもう一つ決まったのが、国鉄労組運転協議会の分科会の一つであった機関車連盟を独立させ機関車協議会という単独職協とすることであった。機関車連盟の念願がかなったものといえるが、新たな機関車協議会は、国鉄本部の交渉委員の一員として団体交渉に参加するという形では自分たちの要求が実現できないと、全国の機関区を代表する単独の交渉権を獲得することを求めり、単独職協化はその過渡的段階として位置づけられるものでしかなかった。
 48年11月9~11日、第1回機関車協議会全国委員会を熱海市で開催し、規約、運動方針、役員を決定し、機関車協議会を正式に発足させた。薄井政司議長、石原副議長、近藤事務長の体制で、方針として「職能連合組合」を提唱し、機関構成を職能別比例代表により配分すること、団体交渉は職協との直接交渉とするなどをめざすこととした。
 49年4月21日、琴平での国鉄労組第6回大会で迫り来る人員整理への対応をめぐって左右の激論が闘わされたが、機関車協議会は、「職能別協議会を交渉単位として認めよ」という提案を行い、「職協委員は団体交渉の補助委員とする」との緊急動議が可決したことで、結果として機関車協議会の提案は退けられた。
 その後、下山・三鷹・松川事件、国鉄職員約9万5千人の解雇、国鉄労組「指令ゼロ号」に基づく第16回中央委員会(8月15日・成田市)で共産・革同の左派を完全に排除した執行部の確立という激動期を経て、49年10月14~17日、国鉄労組第7回臨時大会が塩原で開かれる。この大会は成田中央委員会で確立した民同派の主導権のもと組合方針を転換することに大きな主眼があった。全労連からの脱退と総評加盟、政令に準じて総罷業を字句の削除、組合員資格を従業員に限定し解雇された者の組合員資格を認めないこと、などに議論が集中した。この場で「職協代表を交渉委員に」という提案もなされたが否決された。
 国鉄労組の年史『国鉄労働組合20年史』の第7回大会の説明に1行たりとも触れられていない職協問題での「否決」は、だがしかし、機関車協議会をして単独組合結成へと向かわせる引き金となった。
 1950年3月9日には、新鉄、高鉄、仙鉄局管内の機関車乗務員の単独労組結成同盟有志が集い、結成のための専門研究機関を発足させており、この時点ですでに仙台では結成準備会を結成するに至っている。
 50年5月11日~12日、機関車協議会第4回全国委員会(山形県温見)はこの流れを決定づけた。単独労組結成について賛否は分かれたが、「現在の組合はあきたらない。石炭節約益金の問題でも中闘はたよるに足らない。今日は何といっても事務官僚万能であり…この事務官僚と結び付いているのが現国鉄民同の姿である。中闘にたよっては百年河清を俟つに等しい。機労を作ってこれを打破するしかない…」と強く主張する者もあり、次の決定がなされた。(※「事務官僚」とは国鉄の職員局をさすと推察される)
 ①国鉄労組を職能を中心とした組織に改善する、②職協に交渉権を持たせるべく本部に規約改正を求める、③最悪の場合(国鉄労組大会で否決された場合)単独労組結成の準備会を持つ、④本部の充実を期するために機関車会館を建設する(※「本部」とは国鉄労組のではなく機関車協議会のこと)。
 
機関車協議会の奮闘と敗北
 
 この決定は、機関車協議会に単独の交渉権を与えるか、それとも単独労組か、と国鉄労組本部に迫るものだ。機関車協議会として退路を断ち、最後の闘いに打って出ようという決意が伝わる。
 続く50年6月28日~7月1日の国鉄労組第8回大会(登別)で、国鉄労組本部と機関車協議会は真正面からぶつかりあうことになる。この大会は、国鉄当局が機構改革を行ったことから、全国27の地方鉄道管理局単位に地方本部を置き、その下に支部、分会を作るというように国鉄労組組織を改編することや、総評加入問題などの運動方針が中心的な議題になったが、職協問題も議論の俎上にのぼった。
 本部は基本方針に「労資協調主義と職能別組合主義を排除する」との内容を盛り込み、職協は職能別専門委員会制度とし、中央本部・地方本部に別個に設置し、費用も所属組織ごとに支給するとする組織改正案を提出した。それまで機関車協議会は、本部からの交付金も独自の会費も協議会本部が集めて、地方に分配するという体制を維持しており、そのことが組織の縦割りの指導体制を保つ力となっていた。本部案は、一つの職能的組織として全国、地方、下部の有機的なつながりを断つことを目的としたものだった。
 これに対して、機関車協議会は全国の地区から選出された機関区出身代議員を密かに集め、規約改正小委員会に論客を送り込み、ここを闘いの場とした。その結果、小委員会で機関車協議会の主張が通り、職能別協議会に交渉委員を認めるとの決定を勝ち取るに至った。ところが、本部はこの決定を認めず、地方本部結成を含む規約改正のすべてを保留するとして、本部に整備委員会を設置し、結論ができあがり次第臨時大会を開催し組織改正を行うという本会議決定となってしまったのである。
整備委員会の結論を受けた国鉄労組第9回臨時大会(50年10月12~14日、松江市)において、①単一組合を堅持する、②地方本部を設置する、③職能別協議会の交渉制度を廃止する、との方針を提起、機関車協議会は「職協に交渉権を与えよ」と提案したが、賛成198、反対234、白紙2で否決された。
 
 単独組合に「待った!」をかけた者
 
 この国鉄労組大会決定を受け、1950年11月15~16日、機関車協議会は第5回全国委員会を福島県飯坂市で開催し、次の決定を行った。
 ①国鉄労組松江大会の決定をもって「最悪の時期」と認定する、②機関車単独労働組合結成準備会を設置する、③あらゆる手段を講じて単独組合結成に至るまで組合員を獲得する、④準備資金30円を徴収する、等というものだ。
ついに火ぶたが切られ、この日を境に、機関区の労働者の国鉄労組脱退が開始されることになった。機関車労働組合結成まで、あと半年である。
 ところが、である。これにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が「待った」をかけてきたのだ。機関車協議会全国委員会の直後、機関車協議会は、GHQの労働課長エーミスに出頭を命じられ、11月22日に機協三役が面会している。この面会について、国鉄労組の機関紙「国鉄新聞」1951年11月22日号に2つの記事が出ている。
 一つはエーミス労働課長が機協三役に対して発言した内容だ。「私の職権からでなく米国労組の役員として友人として君達に勧告する。アメリカには職能別労組はある。しかし米国において労働運動をやってきた私の経験や、日本に来て労働問題に関係して来た経験から云って、国鉄の様な所では現在の単一組織が最も良いと考えている。米国でも職能別組合から産業別組合へと発展的整備の傾向を強く示している。従って職能的に組合をつくろうとする考えは誤りと思うから考え直したらどうか」と紹介されている。
 もう一つは、それに先だつ11月17日に国鉄労組中闘が呼び出され、GHQ労働課のバーローが発言したとされる内容だ。「少なくとも四年の歴史を経て国鉄労組が団結した今日、之を分裂させる様な行き方は賛成しない。私としてはそういう風にならない様に援助したいと思う」と言われたという。そして国鉄労組は、この内容をもとに「機労結成に対しGHQが中止を勧告した」とキャンペーンを張った。
 GHQはなぜ機労結成に反対したのか。共産党の組織と見誤ったという説もあるが、そうではないだろう。GHQは、1948年以来、労働組合育成の方針を転換し、労働運動への積極的な介入を進めていた。その結果、政令201号公布と定員法による大量解雇の過程で各組合に民同が結成され、民同指導下の組合が相次いで産別会議を脱退、1950年7月に総評が発足した。
 そのGHQの労働政策の中心的役割を担っていたのが国鉄労組民同であり、国鉄労組加藤閲男委員長は外遊を繰り返し、国際自由労連結成に参画するなど破格の厚遇を受けていた。左派を排除しようやく確立した新生国鉄労組に楯突く機関車労組はたとえ共産党とは縁遠い存在だったとしても、GHQにとって迷惑千万だったに違いない。
 GHQが機労結成に否定的だという事実は機協役員にとって極めて深刻だったらしい。「動労三十年史」に掲載された機労結成準備委員による座談会にこうある。
《兼高 GHQは機労結成の動きを、共産党の指導によるものと考えていたようです。当時は6月25日に朝鮮戦争が勃発したばかりという状勢であったし、7月にはGHQのきも入りで総評が結成された直後で、総評・国際自由労連とつながる国労を割って出るということで、GHQににらまれたわけで、私などGHQに身辺を洗いまくられました。当時の結成準備委員は、沖縄へ強制労働に送られるかもしれないと覚悟していたものです。》
 
心強い味方
 
 困り果てた機協役員が相談したのが亀井貫一郎という人物だった。機協の副議長、後に初代機労委員長になる瀬戸敏夫が、神奈川県山北地方という国鉄出身者の多い地域のボス的存在で、ときどき亀井を呼んで講演会をしており、その伝手を頼った。一部始終を話したら「よし、わしがよく説明してやる」となったらしい。
 亀井貫一郎は、戦前東大卒業後に外務省に入省しており、英語も堪能でGHQとの交渉に最適任の人物であったろう。戦争中は大政翼賛会総務兼企画局東亜課長、財団法人聖戦技術協会理事長を歴任、政財界にも太いパイプを持っていた。
 機関車協議会は同時に、機労結成と交渉権獲得という大目的に向かって労働法に詳しい協力者を求めており、当初は末弘厳太郎に声をかけようとしていたという。その話を聞いた亀井が「末弘先生は国労びいきだから駄目だろう。桂先生は反末弘派だからよかろう」と助言したことで桂皋(たかし)に協力を要請することを決めたという。
 桂は、戦争が終わった直後の1945年10月に労働法制審議会委員となり、労働三法の法案起草に携わっている。同時に中央労働委員会公益委員を務めるなど、名前の出た末弘と並び労働法制界の重鎮中の重鎮であった。法案起草の過程でGHQとも深い交流があったことが推察できる。
 機関車労組結成準備会は1951年2月6日夜、桂皋と上山義昭と懇談し、機労準備会と交渉単位要求の法的裏付けを得るために協力を求め、「両氏は我々の主張に賛成し、全面的に協力することを約した」との報告がある。上山は弁護士で、かつ駒沢大学教授で、両氏は3月30~31日の機関車労組結成準備大会で正式に顧問就任が決まり、先の亀井とともに機関車労組を支え続けることになる。
 機労結成に携わった元役員たちは、亀井・桂・上西がいなかったら機労結成はできなかったと口をそろえる。
《車田 亀井先生と桂先生は、いい組み合せだったですよ。亀井先生は政治工作とか、パーッと吹きまくって大衆を引きつけることに傑出した人。桂先生は緻密に物事をまとめるという才能がものすごい、りっぱな人、とにかくあの二人を引っ張り込んだというのは、結成に大きなポイントを持ったということだね。
新井 あの頃、機労をつくろうとした人たちは、労働運動の主流をやった人ではないし、組合運動の経験もあまりないし、とにかく情熱というか、そんなものが先行していて、労働情勢の分析・法律解釈・交渉単位など、間題点を自分たちで研究して解明する力がなかったと思うんですよ。
兼高 機労は職場の活動家がつくった組合なんだ。イギリスの労働運動の初期のフェビアン協会、要するに知識人学者グループが知的なバックアップをし、職場の活動家が人類愛・労働者愛に燃えて運動をつくりだして行った。機労結成の情勢は、それに似てますね。》
 
機関車労組と「交渉単位」
 
 この桂皋が特に尽力したのが、機関車労組の「交渉単位」獲得の問題だ。
 現在では耳慣れない言葉となった「交渉単位」とはどういうものか。先に述べた公務員のストライキを禁止するマッカーサー書簡の内容を緊急に実施するために発せられたのが政令201号であったが、これを法律として整備したのが1948年12月に成立した公共企業体労働関係法(公労法)で、翌49年に発足することになる国鉄と専売の2つの公共企業体を対象とした法律であった。
 「交渉単位」はこの公労法に盛り込まれた制度で、公務員のスト権剥奪という大問題の陰に隠れて議論の対象とならなかったものだった。アメリカのワグナー法をモデルにして作られ、公共企業体とその職員の代表が協議して交渉単位を決め、その代表に排他的な権限を与えるという内容になっている。
 つまり、交渉単位の決定者は国鉄当局と国鉄労組となり、たとえ国鉄労組から独立し機労をつくっても、国鉄労組が認めなければ交渉権を認められないことになる。最近の個人加盟ユニオンのように、一人でも組合員がいれば団体交渉が認められる現在の制度から見ると考えられない制度だった。
 「機関車労働者に交渉単位を」の要求は国鉄労組内にあっては実現できないとして、1951年5月に結成大会を開き、機関車労働組合を誕生させた。1952年3月、機労中闘は、労働省が示した国鉄全職員を一つの交渉単位とし国鉄労組と機労から交渉委員を出すという妥協案を提案したが、中央委員会で多数決で拒否。中闘は一度総辞職し、交渉単位獲得が組織の総意であることを確認し再選され、3日後に国鉄本社横での無期限ハンストに突入することになる。機関士の優遇措置の復活のために国鉄労組から独立した団体交渉権を求める闘いは、執行部の妥協的な姿勢を組合員が批判する中で貫かれるのである。
 桂が晩年になって、機労執行部9名が無期限ハンストのさなかに、夜中こっそり弁当を食べていたと証言している。真偽のほどはわからないが、下からの突き上げでハンストに突入せざるをえなくなった執行部の困惑ぶりは想像できる。
 このハンストは、国鉄当局の「機労の自主性をいかしたい」という言質を得て3日目に終了しているが、その後も交渉単位の獲得はならなかった。
 機労は国鉄労組職協時代からの闘いの積み重ねで、交渉単位制度そのものが労働者の基本的権利を侵害していると確信し、その廃止を求める闘いを呼びかけた。この主張が思いのほか支持を受けていくことになる。
 1954年3月、機労は「交渉単位制廃止と並んで自主的団交権の確立をめざす」として遵法闘争、休暇闘争に突入、ついに国鉄労組、国鉄当局が機関車単位の交渉権設定を認め、歴史的な勝利を果たしたのであった。
 交渉単位制度は、同年の審議会で廃止が答申され、1956年に公労法改正で正式に廃止された。当時、この制度に関係していたのは機労のみで、交渉単位制度の矛盾と非合理性を暴きその廃止に追い込んだのが、戦後以来の機関車労働者の苦闘であったことに疑いの余地はない。
 
 動力車賃金表の実現
 
 機関車労組は、国鉄労組から自らを独立させ、交渉単位を獲得するという形で団体交渉を行う権利を得た。しかし、そのことは機関車労組の目的を達成するための一里塚に過ぎない。その目的とは言うまでもなく、戦後の万人平等主義的な生活給を色濃く反映した賃金制度を改め、機関車乗務員が戦前獲得し、守り続けてきた既得権を回復することにあった。
 機関車労組は、1951年の結成当初は、運転考査制度の導入計画を踏まえ、その責任に相当する給与として月額3000円を求める運転考査裏付け要求を掲げた。翌年にはこの要求を取り下げ、機関区職員の給与の一律30%増額を掲げるとともに、戦前と同じように職務初任給を導入するように求めた。
 これらの機関車乗務員の優遇を求める要求は、1954年に職種別賃金要求としてまとめ上げられ、そこに個々人の年齢・勤続年数を反映した俸給額を、号俸別基本給表で示すということをめざした。この職種別個別賃金要求は、公労委の調停内容にも影響を与え、国鉄労組に配慮する国鉄当局が難色を示しながらも、制度実現への機運を高めていった。その後も辛抱強く要求を続ける中で、1956年12月に公労委仲裁委員会は機関車労組の要求を認め、当局が機関車労組のみと交渉して決定することを認めた上で、動力車乗務員の賃金制度改定案を示すことを求めるに至った。その交渉を経て、公労委は翌57年2月、基本給の平均2%、約300円の格差をつけるよう求める裁定を下した。この裁定に基づき国鉄当局は、動力車乗務員の賃金は一般職員に対し基本給において一人平均300円の格差とすること、動力車乗務員基本給表、職群および裁定最高号棒については別に定めるとした「了解事項」を認めた。
 こうして、機関車労組の結成前からの目標であった基本給表の別建てと格差をついに獲得したのであった。交渉単位獲得から格差賃金実現への闘いを支え、ときに激しく執行部を突き上げた職場組合員のエネルギーの存在を感じ取ることができる。一連の流れをみると、機労の職能的な精神とは、必ずしも自分の待遇をよくしてもらうことを意味していないと考えられる。
 機労を成り立たせているものは、職能意識、別の言い方をすれば機関士という誇り高い仕事を正当に評価せよという集団の総意である。当時の共産党や社会党が主導権を握っていた他の労働組合と比較して、その団結力や戦闘性において負けていないばかりか、凌駕しているとさえいえるのである。
 この格差賃金を実現した1957年の春闘で、機労は三役の解雇をはじめ大量の処分を受けた。国鉄当局は機労、国労に対して、解雇者を抱えた執行部とは団体交渉を行わないと通告、公労委が「非解雇者を組合代表とするため速やかに臨時大会を開催し善処すること、当面非解雇者の中執を組合代表とし交渉を再開すること」等の「藤林あっせん案」を提示した。国鉄労組がこれを受諾したことに対し、機労は一人これを拒否して解雇三役を再選し、以降1年以上にわたって交渉の道を断たれることになった。機労にとって生命線ともいえる交渉権を断たれても筋を通し、ILOなどの国際組織に訴え、ついにILO87号条約批准に道筋をつけていく姿をみると、機労の職能的な精神がいかに強靱なものであるのかがわかる。
 
 動力車近代化
 
 一方、機労の悲願であった格差賃金を実現した1957年は、「国鉄近代化5ヵ年計画」が実施に移される年でもあった。約6000億円の資金のもとに進められた計画内容は、戦中からの老朽化した設備、車両の更新を行うに際して、全面的な電化・ディーゼル化を進めるというものであった。さらに、1961年からの「新5ヵ年計画」では年間2000億円を投入し、主要幹線の複線化等に合わせ、動力車近代化を強力に進めるというもので、蒸気機関車は60年度末の4000両を65年度末に2600両まで減らすという計画だった。
 機関士という高級な職種にふさわしい待遇を求めるという一致点のもと結束する機関車労働組合にとって、蒸気機関車の激減は深刻な問題であった。高い技術力と豊富な経験がものをいう蒸気機関車からの転換は、かつて産業革命とともに消滅していったギルドと同様の運命をもたらす構造的変化であった。
 これに対して機労執行部は次の方策をとった。
 第一に、動力車近代化に対して、事前協議を求め、基地統廃合、電車・ディーゼル車の基地への転勤などに対して、可能な限り規制する。並行して、内達1号の基本的な枠組みを堅持し、その上で乗務キロ、乗務時間の制限をかけ労働強化に歯止めをかけることである。61年の3・15闘争とその後の交渉においてこれらは勝ち取られ、『動力車運動史』では次の評価を与えている。「かつては当局の一方的通達によって、不定量の労働を際限もなく搾取されていた国鉄労働者が、たんに仕事に応じた賃金のみならず、自らの提供する労働量そのものをも、たんに外延的ばかりでなく内包的にも、その密度にいたるまで団体交渉によって厳密に規制するにいたったことは、まことに称賛と驚嘆に値する」。この妥結は、この時代の最大の成果と言ってよい。
 第二に、1959年の第9回全国大会において、組合組織の対象を機関区の枠内から、電車区・気動車区などに広げ、組合の名称を「国鉄動力車労働組合」に改称したことだ。それは、蒸気機関車廃止に伴う機関区・機関士の漸減と新たな職場への転勤に対応するとともに、新職場を積極的に組織化していくことを意味した。
 第三に、格差賃金実現を達成したことを基礎に、1960年に第二次職種別個別賃金要求を確立し、あるべき昇級基準に近づけるための是正をめざすなど、勝ち取った動力車乗務員基本給表の改善へと向かったことだ。
 交渉力に自信をもち、実際に多くの成果を得たが、しかし、急速な近代化政策の強行のまえに労働組合としての組織力が試されるようになっていた。
 (続く)
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